探索8日目サフィさんはかなしんでいた。 岩にひきつぶされた食べられませんくんのからだを抱いて。 ひめいのようなサフィさんの声が聞こえて、泣き声がきこえて、 そうしてわたしは、サフィさんの、かなしんでいることを知った。 ともに旅をしてきたなかまが、見知ったひとが、たおれ、 もう会うことはできなくなる。 それはかなしいこと。サフィさんにひかれて、ついてきた歩行雑草なのだから、 サフィさんのかなしみはわたしたちのだれよりきっと深い。 ひごろにわたしたちがどれだけの生きものを殺そうと、食べようと、 わたしたちに親しい生きものや見知った生きもの、 つまり知りあいや仲間との、別れは、見知らぬ生きものの殺害とはめいはくにちがう、 かなしいことだ。 けれどかなしいことの前で立ちつくしたとき、人はどこにもゆけなくなる。 ので、わたしたちは、物語をかんがえる。かなしみを去るための物語をかんがえる。 それはきゃっかんてきには、せいとうせいをしょうめいしがたい、物語かもしれないけれど、 それを信じることはできる。 信じるにたる、物語がある。 わたしのサフィさんにかけたいくつかのことばは、 彼女へのたすけとなれたろうか? かなしみを感じることができるのは、そうぞう力をもった、 あるていどに「こうとうな」どうぶつだけだ、 という話をきいたことがある。 三日月をみたときに、あれは「欠けた満月」なのだと思いうかべられるどうぶつ、 世界の、ただそこにあるたくさんの現象に、「なにかが欠けている」ことを思いうかべられて、 それが「みたされてほしい」と欲望できるどうぶつは、 はじめて「欠けたことがうめられないかなしみ」を感じることができるのだという。 ゆえに、つまり、かなしみは「そうぞう力」が生みだす。 人は、かなしみを知っている。「そうぞう力」をもっているから。 そしてまた、「そうぞう力」をもっているからこそ、 人はかなしみをきっと去ることもできる。 かなしみを去るほうほうを、かんがえることができる。 死はかなしい。死はあまりにかなしい、ので、 そのかなしみを去るほうほうを、人はいくつもかんがえた。 花をおくることで、 いのりをささげることで、 命はめぐりつづけるのだと語りきかせることで、 人はかなしみをとりあつかうすべを、みにつけていった。 別れにさかずき。死者に花たば。もろもろのふるくからの物語を、わかちあい、 人はいつか社会のなかで死に慣れた。 ひとはわすれる。すべてわすれる。 かなしいことばかりでは生きてゆけないので、 ひとの頭はいつかかなしいことの思い出をうすれさせ、 日一日をまたすこしずつ生きてゆきなさいと命じる。 むねを打ち、せつせつと語りかけてくるのは、「今このとき」のかなしみ。 「かつて」わたしが苦しんだかなしみは、 「今のわたし」にとってはきっと、ふりかえってみれば小さな、ひとつの思い出にすぎない。 かつての、かなしみ。 わたしもかなしみを知っている。指おりかぞえられるくらいには少ないけれど、 けれどたしかにわたしのものだった、かつてのかなしみを。 おとずれた行商のひとびとが、背をむけて、また朝の道を去っていってしまう日のかなしみを、 したしかった教会のおじいさまがなくなったときのかなしみを、 ある夜ベッドのなかで、もし目がさめたらだれもいなくて、 わたしをひとりのこしてみんながどこかへいってしまったら、と、 思いうかべたときのかなしみを。 けれどそれらは小さな「かなしみの思い出」として、 わたしのこころのどこかに眠っていて、 胸をうつことはもう、ない。……ない。 食べられませんくんはもういない。 けれど食べられませんくんの、なにほどかの性質をやどしたものは、 かけがえのない食べられませんくんのまま、永遠にめぐりつづける。 だから死はかなしくない。 ……いや、死は、かなしい。 けれど、かなしくない。 それはなぐさめのための物語で、 でもそれでもきっときちんと、「信じうる」物語ではあるとおもう。 かんがえることにはきっとどこかで、 かんがえることをとめて、なにかある命題を、そのままに「信じ」なくてはならない地点が、 あるのだと思う。 かなしみをちいさくして、またつぎの日をむかえ、たちあがるための、 物語。が、 あるのだと思う。 人にはそうぞう力がある。かんがえる力がある。 かんがえることのゆえに逃れえない、ひとつのふかい胸のいたみと、 つきあってゆくための物語が、あるのだと思う。 すべての戦いにおいてではないけれど、なにがしかの戦いにおいては、 ときに死も悪くないことがある と、ハルア(わたしをよびだし、名づけた、めがねのハルア)が言ったことがある。 すこしお酒によったときに、わらいながら、 けれど目のおくに暗い炎をやどして。 ――この島にゆく旅びとのなかにも時おり見かける、 崖ふちを見おろしていまにもとびおりようとするような、 いつかとりかえしのつかないことをしてしまいそうな、 なにかがくるった色の炎をやどして。 だれかの死についてではない、じぶんじしんの死については、 わたしはあまりよく知らず、わからない。――ただ、死ぬのはこわいとおもう。 「死もわるくない」ときが、いつかほんとうにあるのだろうか? そうした戦いのなかで、わたしも死をえらぶときがあるのだろか? けんとうもつかない。 ふしぎ。