探索9日目きょうは、砂地をこえて、水辺ぞいをすすむ。 ちいさな川のような水がひだりてのほうに、ながれているのが見える。 草はらとちがって砂地はあまり好きではないけれど、 ちかくに水があるのは、とてもうれしい。 きゅうけいのあいまに、水のほうへいって、足をひたしたり、する。 サカナがいないかと思って目をこらすのだけれど、 いまのところ、見つけられていない。 わたしの気配ににげてしまったのか、それとももともと住んでいないのか。 ちいさな虫やみなぞこにゆれる草はちらほら見かけるので、水が毒だ、ということはないと思う。たぶん。 ちいさな虫をじっと、じっとみていると、あるときふっと、虫からもじいっと見られているような、 ふしぎなきもちになることがある。 わたしはかれらにくらべるにはあまりに大きく、けたはずれすぎて、 かれらにとってはきっともう、恐ろしい敵でさえない。 ただそこにある、自然のようなものなのだとおもう。 わたしはかれらを押しつぶすのに指いっぽんでたりる。 けれどそれは必ずしも、かれらがわたしよりも「おとっていて」、「あわれむべきもの」だと、示すわけではない。 またまた、あまいいさんから教えてもらったこと。 戦うちからのつよさは、ある生きものの価値をきめる、ゆいいつのものさしではない。 わたしよりも小さな生きものがいるように、わたしよりも大きな生きものがいて、 きっとそれぞれのやくわりがあって、自然のなかにくらしている。 草がおいしげりすぎないよう草を食べる虫がいる。虫が草を食べすぎないよう、虫をたべる鳥がいる。 鳥がとびすぎないよう、鳥をたべる鳥がいる、狼がいる、人がいる…… それらのなきがらで大地がうまらないよう、なきがらを食べてそだつ草がある。 鳥にくらべればたたかうちからのよわい虫も、鳥にはけっしてできないことができる。 わたしたちをつつむ大きなめぐりのなかで、わたしたちはそれぞれに歩いていく、 そしてそのゆえに、戦うちからは、わたしたちのゆいいつのものさしではない。 でも、人間はけっしていつも鳥ばかり食べているわけではないし、 ベジタリアンもいるし、鳥だけは食べない、という人もいるし、 いつもは鳥をたべるけど、ある日きまぐれで、罠にかかった鳥をにがしてやる、ということもある。 それは歩行雑草もかわらない。 いや、ちのうのある生物はみなきっと、かわらない。 わたしたちにはそれぞれのになう役割とはべつに、それぞれの気まぐれ、それぞれのにないたい役割、 それぞれの「えらんだ」役割がある。 わたしは草花で、空気をきれいにして、日のひかりをあびて、 ごはんをたべ、ときおり土をゆたかにする。 けれどそうしたえらびえない役割とはべつに、わたしは旅だち、遺跡にもぐり、 歩き、かんがえ、助け、たたかう、そのことを「えらぶ」。 えらぶことはむずかしくて、少しこわい。けれどえらぶことなしに歩いていくことはできないので、 わたしは自覚のないときもいつもなにかをえらびながら歩いている。 「ほんとうのわたしを見つけること」と、「ほんとうのわたしを名づけること」のもんだいを、思いだす。 ほんとうのわたしは、たとえばたんぽぽやひまわりのような、ある種としてのわたしで、 それとはべつに、名づけられたわたし――わたしみずからが、 わたしはこういうものである、と、えらびとったわたし、 ある名前を「えらんだ」わたしが、いるのかもしれない。 わたしはアルクリーフと名のらないこともできた。わたしはフーリクルアですということもできた。 けれどわたしはそうしなかった――アルクリーフですと言いつづけてきて、 そうしてわたしはアルクリーフに「なった」。 であるなら、わたしは、わたしが「アルクリーフである」ということをえらんでいた? このかんがえかたは、「えらぶこと」をしっかりと定義していないから、 まだすこし、「たんらくてき」かもしれない。あさいかんがえかもしれない。 ので、しばらくは、「保留」しよう。 浅いかんがえ、深いかんがえ、と言ったときに、まずいちばんに思いうかぶのは、浅い水と深い水だ。 かんがえは水のようなものだと思う。 深さがあって、ながれながれて、ときにとどまり、風にさざめく、 わたしのこころのふちにたまった、水のようなものだと思う。 かんがえの浅瀬にちゃぷ、ちゃぷと遊ぶのは、たのしい。 けれどほんとうに知りたいものや、ほんとうに考えたいもののあるときには、 浅瀬でただたのしんでいるだけではいけなくて、はっ、と息をとめて、 深い深いかんがえの奥へと、きっともぐっていかなくてはいけない。 その深い深いかんがえのみなぞこには、くらやみのなかできらりとかがやく、一握の小石がねむっているのだと信じて。