探索16日目


遺跡のなかはいろいろなものに出会う。 足あとを見て生きものを思いうかべるやりかたは、 トライアド・チェインで旅をするうちに、おぼえた。 五本指のあと。三本指のあと。ひっかいたようなあと。這ったあと。ひづめのあと。鳥の羽。あるいは、フン。 そうしたものをじっと見て、あたまのなかの知識や、図鑑とてらしあわせていると、 自分たちの近くになにが生きひそんでいるのかを、知ることができる。 わたしは足あとをみつけるのがそれほどとくいなわけではなくて、 旅人のふんだあととか、すいとうを置いたあととかに、よくごまかされてしまうのだけれど、 この日みつけたとても大きなひづめは、あやしい! と思えた。 ふたつに割れたひづめのあと。右前足と右あと足、左前足と左あと足、 つねにおなじがわの足をだして、あるいている。触れるとふしぎと、熱い。 地面にいくらかこぼれる、日をてりかえす砂のような、うす茶色の、長い毛。 ……きっと、 ラクダ。 それもとても大きいもの。 しかも群れをなして、わたしたちのいる辺り一帯にくらしている。 ラクダを見たことはない。むかしくらしていた町をおとずれる商人の人たちが、 いつも売りものや、テントや、食事や、たくさんの荷物を背負っているので、 ときにラクダ、と呼ばれていた。けれどそのくらい。 ラクダは、ひとつか、ふたつのこぶを背負って砂漠をゆく、大きな生きもの。 むずかしい小説よりも、絵本へ姿を現すことのほうが、多いように思う。 そのせいか一度もみたことがないのに、わたしのなかでラクダはとても絵的なイメージをまとっていて、 夕日にかげろうがゆらめく熱い砂漠を、ラクダの背にのった旅びとが、 どこか遠くをめざして歩いていくような、そんな光景とともに、ラクダはある。 ラクダはすこしかなしい。生きものの気配のたえた砂漠を横切り、 どこかとおくへゆくのだ。 生きるにむずかしい場所をただ横切ってとおくへゆくために生まれてきたような、そのこぶと、瞳と、ひづめで。 わたしはアルクリーフなので、遠くへゆく。けれどわたしはこの地にたとえば根を張るようにも生きてゆかれる。 むしろそのほうがわたしの生きものとしての天命なのではないかと、 思うこともある。……わたしには地に生えるベクトルがある。 けれどそれは地に生える運命ではないので、 わたしは足を引き抜いて、地をふんで、どこか遠くへゆく。 ラクダにとって砂漠を横切ることはベクトルなのだろうか。運命なのだろうか? いきもののうまれと、目的性と。 それはいちばん考えてもしかたのないことだと、 あらゆるものに意味をもとめすぎるのはよくないことなのだと、 わかっているはずなのに、すこし、気になる。 どうしても、気になる。

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