探索17日目

ながい石段をくだったさきは、たくさんの山々にかこまれていた。 
遺跡のなかにある、この、もりあがった、砂と岩のおおい、 
生きもののひそむ、荒れた土地を、
はたして「山」とよぶのがただしいのかどうかはわからないけれど、 
それでもきっと、そうよぶよりほかにない……おおきな、山。 

山は遺跡のそとにいきる人間たちにもふるくからずっと身近で、 
それはある物語のなかにあらわれる、かみがみのすみかであったり、 
魔女の家であったり、やまおとこのくらすところであったり、 
あるいは山そのものが、神であったりする。 

山はおおきい。わたしたちよりもはるかに。そのなかにたくさんの生命をはぐくみ、 
そしてその生命たちは、たがいにひとつのおおきなめぐりをなしている。 
ある、人の手のおよばないようなおおきさを目にしたとき、 
わたしたちはちかよりがたさとともに、ある、神々しさ、神聖さを、かんじる。 
この気もちをわたしたちは いふ と名づけている。 

山をあがめるか、山にすむなにものかをあがめるのか、 
あるいはあがめるのではなく、親しみをもって、隣人として、 
その民族や種族がもつ物語のうちにえがくのか、 
さまざまなちがいはあるのだけれど、 
ひとつ、きょうつうして言えることは、 
ある、ちのうをもった命は、山に、「おおきさ」を感じ、 
そしてそのおおきさをとおして、山にふれあうということ。 
ときにそれは信仰につながる。 

信仰。 
わたしのくらした町のひとびとは、山をあがめてはおらず、 
神さまをあがめていた。 
ほんとうに神さまのことを心からしんじて、ある世の救いをいのっているひともいれば、 
日々のくらしのなかで、じぶんのおかしてしまう悪に、神さまの罰がくだることを、おそれる人もいた。 
おだやかな日には口のなかに祈りのことばをつぶやき、 
みな二行か、三行くらいは、教典のなかの好きなことばを、そらで口にすることができた。 

教会のまえの広場に聖者芝居のある日にはひとびとがあつまり、 
くるしみと、それにもたらされる救いの物語をじいっと見つめ、 
そのあとには教会へはいって、やすらぎをねがいながらいのりをささげた。 

本を読み、ひとびとを見つめて、たくさんのことばをおぼえるうち、 
わたしには眠れない夜がふえた。 
眠りのこわい夜がふえた。 
わたしはたくさんのことを知り、 
たくさんの起こりうることを知り、 
そうしておそれた。 
もし眠ってしまってふたたびはめざめないとしたら、とか、 
目をとじてあけて、次の日の朝になると、 
もういままでのわたしはねむりのうちに消えてしまっていて、 
わたしではないわたしがわたしのなかに入ってしまっていて、 
けれどまわりのひとはなにもわからないまま、 
わたしが消えてしまったこともわからないままになってしまったら、 
とか、 
もっとたんじゅんに、くらやみのなかで目をとじること、とか、 
そうした、もしかするとつまらないかもしれないことを、 
おそれて、わたしは眠れなくなった。 

そのこわさを話すと、いっしょにくらしていたハルアは、すこし考えてから、 

――神さまが守ってくださると思うんだ、 

と、言った。 

夜にひとのこころは、よわくなる。ねむりもこわくなる。 
けれどやさしい神さまが、ひちのいちばん不安なそのひとときを、 
まさか、守ってくださらないはずはないさ、と。 

意味や理由のないたくさんのおそれが、人や生きもののこころにはそなわっていて、 
そうした意味や理由のないおそれとは、学問や理屈でたたかうことができない。 
意味や理由のないおそれをいやしてくれるのは、 
意味や理屈を、はるかかなたに、おおきくこえてしまうような、 
理由のない愛で。 
筋のとおらない愛で。 
それらをそなえた、ばかばかしいほどにおおきな存在が必要とされる、 

そしてその存在はいつもそばにいる、 
それが神さまなのだと。 

まもられて眠る。ことを、かんがえると、 
わたしにはふしぎと眠りがあたたかいものであるように思われてきた。 
なによりも弱いそのときこそ、なによりもわたしを守ってくれるものに近しいのだと。 

けれどわたしはうたぐりぶかい魔法つかいなので、 
神さまのことをほんとうに、こころから、いらっしゃる、と、 
信じているわけではない。それはまだ保留のじょうたいにある。 
守ってくださることを信じているからといって、 
旅空にねむるとき、けいかいをおこたったりすることは、しない。 
たとえば、ねているときに獣におそわれる、というのは、 
それは理屈のはんいのおそれなので、わたしがきちんと、たいしょしなければならないし、また、できる。 

ただ、わたしの眠りに、理由や理屈をこえたものがあらわれたとしたら、 
それからはきっととても大きなものが守ってくださるのだと、 
そのなにかとても大きなものは、いるのだと、 
信じることは、力になる。そして力になるかぎりにおいて、 
きっとその存在は、「いる」。 
いなかったら、安心してねむることなど、できないはずなのだから。 
これも信じうるひとつの物語。――信じることと考えることのもんだいの、うちの、ひとつ。 


わたしはある「神さま」がいらっしゃるよ、という物語のうちにくらしたので、 
神さまといえば、人格神なのだけれど、 
はじめに書いたように、土地によってはもちろん、山や海をあがめるものもある。 
こうごうしさ、「神性」をかんじさせる、ものすごくおおきなものとして、 
山をひとつのアナロジーあるいはシンボルとしてもちいることは、 
ふしぎなことではない。 

遺跡のうちにあるこの大きな山を、 
遺跡にすごす生きものたちは、どんな気もちで見つめているのだろう? 
動物たちばかりではない、知恵をもった生きものたちがこの遺跡にはくらしている。 
人、と、動物は、おおきく生きかたや考えかたがちがうけれど、 
そうした、この遺跡の「信仰」、この遺跡の「宗教」をもつ生きもの(たち)が、 
いてもおかしくはないかもしれない。 

もしかすると、ずっとこの遺跡にくらす、この遺跡ならではの、亜人種も、 
わたしたちが出会っていないだけで、どこかには、いるのかもしれない。 

山と、森と、水と――この遺跡は、わたしたちのくらす外の世のミニチュアのようだ。 
生きものばかりではなくて。この遺跡のなかに息づく、 
文化、 
が、あるのなら、それはとてもおもしろいことだと思う。 


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