探索13日目エニシダさんが、むしよけをしてくれた。 わたしは気づかなかったのだけれど、わたしのあたまのよこの葉っぱのうらに、 たくさんの「ありまき」が、すんでいた(あるいは、おとずれていた?)のだそうだ。 遺跡にはいってから、ちょっと頭がもさもさするような気がしていたのだけれど、 きっとほこりがかみのけにからんで気もちわるいだけだろうと、思っていた。 エニシダさんがおていれをしてくれているあいだは、少しくすぐったかったのだけれど、 さいごに、よし、終わりだと言ってもらったあとは、もうずいぶんすっきりしていた。 おていれしてもらっているあいだ、横目でエニシダさんのことを見ていたのだけれど、 いつもかれがなにかに集中するときの、あのどくとくのきびしさをたたえた赤いひとみで、 じっと葉っぱをみていてくれていた。 エニシダさんはやさしい。 ありまき、ときいて、わたしは、かたつむりのような、 みぎまきまいまい、というような、そんな「まき」を考えていたのだけれど、 はらいおとしてもらった「ありまき」は、ちいさな、みなれたあぶらむしだった。 ちいさなむし。かれらは、あぶらや、ありや、じぶんたちと関係のあるものをきっかけにしてしか、 その名を呼んでもらうことができない。 なにかとかかわることでしかかれらはかれらの名をもたない。 わたしがアルクリーフ、あるく葉っぱとしてしか、 みずからに属するあるぞくせいをもってしか、みずからの名を語り出せないのと、きっとそれはにている。 ありまきといい、あぶらむしという、小さな虫たちが、あしもとを三々五々にちっていくのをみていると、 すこしかわいそうにも思えてくるのだけれど、 わたしたちのかんけいは「きょうせい」ではなく「きせい」で、 そのゆえわたしたちはともにいることができない。 おたがいをひつようとしているわけでもなく、おたがいをたいせつにもできないから。 わたしたちのくさりはかみ合わないから。 くさり。 この島にきてから、くさりを見るのが、すこし好きになった。 方位じしゃくにつけたくさりを、じっと見るのが。 (ほんとうは時計につけるくさりなのだけれど、 わたしはかわりに、方位じしゃくにつけている) くさりはおたがいにかみ合って、抱き合うように、ひとくさりごとに、 しっかりとお互いのからだにうでをまわしあって、はなれないようにしている。 それぞれが独立したパーツなのに、おたがいのいばしょをもって、 ぜんたいでひとつのかたちをなしながら、わかちがたく強くむすびついている。 くさりのはしをつまんで、方位じしゃくをぶらんとたらすと、 くさりは重みを受けてゆれながら、それでもしっかりと、はなれない。 うれしくなって、そのままぶらぶら、ゆらしてしまう。 トライアド・チェイン。わたしはくさりをみつめながら、アナロジーにこころがおちつくのを感じる。 だいじょうぶ。わたしたちはたたかえる。 --------------------------------- 今日から、南西に進路をとる。 強い火のけはいのみなもとへ向かう。 おおきな、だいじなたたかいの前夜を、旅びとはどうすごすものなのだろう? さかずきをみんなですすむほうがくにかかげるとか、 旅びとのかみさまの天恵をいのるとか、 歌をうたうとか、みんなで手をつないで10秒めをとじるとか、 いろいろなはなしを聞く。 けれどわたしたちはうまれもそだちもたぶんばらばらで、 おたがいに共通しないものがおおいんじゃないだろうか? みんなはどうするものなのだろう。 それとも、こういうのは、あんまりきおわずに、さらっと、 じゃああした、がんばろう、 死ぬなよ、 みたいなかんじで、ながしてしまうものなのだろうか? どうしましょう。