探索22日目
お花見をする、というのはふしぎなことばで、
花は、そのうつくしさやかわいさを、
目で見て、めでるものだ、という前提がある。
にたようなことをむかしに書いた気がするけれど、
ひとは見ることをとてもたいせつにする。
見ることは真実にふれるための「ばいかい」として、
おおきくふるくふかく、ことばといしきのなかに息づいている。
見抜く、とか、お見とおし、とか。ひとは見ることとともに真実にふれ、
たしかさからはばまれてあることを、さけるように、くらやみをおそれる。
お花見、とはいう。けれど、
お花見をするひとたちをみつめて(そう、「観」察して)みれば、
花をみているひとは、わりに少ない。
たべものであるとか、おさけであるとか、
風であるとか、なかまであるとか、りんじんであるとか、
そういったものといっしょにいることをたいせつにしている。
けれどそれらのすべてにどこかで、
たしかなそんざいかんとともに、
あたまのうえにひろがる花々がかかわっている。
花をじっとみるひとはすくないのだけれど、
花なしに、お花見は、できない。
花を感じている。それは見るというかたちをとらないにしろ、
色や、かおりや、空気や、空間や、せかいのすべてをとおして、
花を知覚しているということ。その存在を、その必然を。
見ることにとてもするどくとがったひとの五感においては、
木々や花々のたたずむあの存在感をぼんやりと感じることも、
あるいは、見る、とよばれるのかもしれない。
ひとは、見ているのかもしれない。目をとおしてでなくても、あまたの花々を。
けれどわたしはその逆に、花を、じっとみつめてみる。
目をとおして。いい機会に。
花のかたちをおおきな要素としながら、
それでもなお花のぜんたいを存在として感ずることは、
どんな気もちのすることだろうと思いながら。
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もっといろいろなことを知りたいと、
もっといろいろなことを手に入れ、
大きく強くなりたいと思うことは、
生き物にとってとても自然のことではないだろうか。
あまいいさんのそそいでくれた、
たくさんの言葉のことを思い出すたび、
わたしのなかに眠る熱いなにかが、
大きく強く育とうとする。
大きく強くなるために私は、
地にちいさな魔法陣を描き、
見まねの文様をきざみ、
小さく魔法をとなえた。
大地よ君の奥底に脈打つ火の力を、
アルクは捧げる、
わたしに今少し先の魔法のことを、
今少し先の真実を、
開いて見せて と。
もっとたくさんのことがらと、
わたしはともにありたい。
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