探索11日目
遺跡のなかのほのかなあかりのなかで、ざわざわ、旅びとのことばを交わす声が聞こえる。
遺跡にはいったばかりの日のように、とてもおおにんずう、とはいかないけれど、
わたしたちのいるばしょは、そこそこに人のいるところのようで、
さらに、はなれていてもことばのとどく、遺跡のふしぎな仕組みともあいまって、
トライアド・チェインのそとの人たちの声もよくとどく。
そういうなかに、ときおりふしぎなうわさを聞く。
エニシダさんとフォウトさん。わたしたちのなかまのふたりが、
「こいなか」にあるのではないか、という、うわさだ。
こい。ふしぎなことば。
わたしのみるかぎり、ふたりはけっして、こいとか、ラブとか、
そういうかんじではない、ような気がする。
よく晴れた町のひろばでみるような、パンをわけあい歌をわけあう、
しあわせに顔をすこしあかくした、男の子と女の子、
そういうすがたはふたりとは、かなり、ずれているもののような気がする。
もちろん、なかまどうしなのだから、けっして、なかがわるいわけではない。
むしろいいとおもう。
でもそれは、わたしとエニシダさんだってきっとなかはいいと思うし、
わたしとフォウトさんにしても、そうだと思う。
それはふつうのことであって、たぶんこいではない。たぶん。
こい。は、
わたしはどういう気もちなのか、よくわからないけれど、
こいはもっと、むねのそこから、心のおくから、わいてきて、
そのむねのそこにある気もちの温度が、ふわっとつたわってくるような、
きっとそういう、けっこう、はげしいものだと、おもっている。
ふたりは、はげしくない。
しずかで、落ちついていて、きびしく、時にやさしい。
それとも、おとなのこいは、はげしくないものなのだろうか?
むかし読んだ本に、『まよなかの女魔術教師』というのがあって、
それによると、大人も時にはげしい恋を求めるのよ、ということだった。
(ハルアの本にしては、なんだかあんまり内容のない本な気がした)
おとなでも、こいははげしい?
よくわからなくなってきた。
ふたりは、なかがいい。わたしたちも、なかがいい。トライアド・チェイン。
すごく、単純化していえば、そういうことなのかもしれない。
ふたりのなかのよさは、とくべつなものであるのかもしれないけれど、
そうだとしても、たとえばわたしとサフィさんの関係や、
たとえばわたしとエゼさんの関係は、それぞれに「とくべつ」で、
それぞれにかけがえのないものだ。
そういう話なのかもしれない。
そのとくべつさが、ときに「こいなか」に見えることもあるのかもしれない。
もちろん、
もしかしたら、ふたりはとうに「こいなか」であるのかもしれないけれど、
それならそれで、ひとこと、メンバーに言ってくれるような気もするんだけれど、
どうなんだろう、言わない。ものなのだろうか?
こいは、じつにめんどうです。
こいじゃないならいいのだけど。
と、書きながら、
じつはわたしは内心は、けっこう、たのしい。たのしんでしまう。
ごめんなさい、エニシダさん、フォウトさん、
わたしはひそかに、うわさに耳をたててしまいます。
根も葉もない、ということばがあるように、うわさには、根も、葉もないけれど、
花はある。
もしエニシダさんとフォウトさんが……なんて、ひとの心のおくを、
「そうぞう」したりするのは、ちょっといやらしいことなのかもしれないけれど、
ある意味、たのしさは、あること。
マスクをとった英雄のむこうには、ごくふつうのおじさんがいるだけかもしれなくて、
カーテンをあけてもかべがあるだけかもしれないけれど、
それでも、マスクのむこう、カーテンのむこうを、
おもいうかべてみるのはたのしい。
こい。
こい、と言いはするけれど、どういう気もちなのだろう?
だれかのことを好き。なら、知っている。
だれかのことを大切。これも、知っている。
だれかとこどもをつくりたい。これは、だいぶ進みすぎてる気がする。
わたしは心のそとの「こい」しかしらない。
わたしの心のうちに、「こい」をいだいたことはない。
こいは、ほんとうに、あるのだろうか?
ほんとうは「こい」なんていう気もちは、心のなかにはどこにもなくて、
わたしたちがだれかとだれかのことをさして、心のそとから、
あれがきっとこいだよ、と、語りあっているにすぎない、なんて、
そういうことはないのだろうか?
知らないものはないものだ、なんて、ばかなことは言わないけれど、
「こい」の実在については、けっこう、けんとうのよちがあるのかもしれない。
こいは実在するや?
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